弊社は昭和5年、浅草にて創業いたしました。
安全で美味しい食品を皆様に食べていただきたい。
その想いは大桝の軸となって、ずっと受継がれています。
これからも地域の皆様に愛される店で
あり続けられるよう、努力していきます。
弊社は昭和5年に創業いたしました。
「今日来店されたお客様お一人をどれだけ満足させられたか」をスローガンにおいしい・安全・健康を日々追求しております。そのため、日本各地にわたる取引産地に足を運び、一品一品丁寧に吟味し、生産者の情熱と共にお客様にお届け出来るよう努力しております。
また、私たちは常に向上心を持ち、常に挑戦する気持ちを忘れず、常にお客様が快適でワクワク・ドキドキしてお買い物を楽しんでいただけるように店舗空間の演出など、さまざまなサービスに創意工夫を心がけております。
そして、お客様に愛され、地域に必要とされ、従業員全員が生き生きと働きがいを感じることの出来る企業を目指しております。
代表取締役社長 植木裕嗣
初代の要造、つまり私の父が、丁稚奉公していた乾物屋から支店を引き継いだとき、世の中には世界恐慌の嵐が吹き荒れていました。まわりの店がバタバタと潰れていったなかで、「不景気に強い食品業界で生きよう」と相当な覚悟を決めて店を始めたようです。
太平洋戦争の最中、父が兵隊に取られました。その間に東京大空襲で店も家も全部焼かれて、ゼロに戻ってしまった。でもすぐに有り金をはたいて浅草に土地を買い、出直しを決めたんです。昭和20年、敗戦の年のことです。その時私は3歳でした。本当に何もない浅草をよく覚えていますよ。私はいわば「終戦直後の浅草の生き証人」ですね。
私達の家族がほったて小屋を立てて住み始めた時には、周りに家が一軒もありませんでした。当時、平屋の家の床に寝転がって外を見ると、南の窓から浅草の松屋が見える。西の窓を見ると、国立西洋美術館と富士山が見えました。そのくらい、何もなかったんです。生活も大変貧しかった。
翌年の昭和21年、その場所に乾物屋の「大桝商店」を開店しました。でも人っこひとりいないところに客がくるはずがない。そして売る商品もないんですね。だから安くてかさばる麩ばかり並べて店の体を見せていました。
後年浅草に人が増えるにしたがって着実に経営が上向いていったんですが、最初はそんな調子で商売にならないので、赤い水、青い水、黄色い水を冷やして売っていました。そんなことを半年ぐらいやりましたかね。同じような店が何軒もあり、大した利益にもならず、知り合った人と上野アメ横で雑穀問屋を始めたりもしました。戦後の闇市の時代です。
隅田川がまだ透明で、底までみえていたんですよ。そこで釣りをしたり、飛び込んで泳いだり、毎日毎日遊んでいました。両親に買ってもらった四手網で魚を獲っていると、おたまじゃくし、ふな、はぜ、くちぼそなんかが入ってくるのが目で見えるんですよ。でも川沿いに工場ができたら、あっという間に汚くなりました。
隅田川の川べりはお金持ちの別荘地で、一件300坪ぐらいの豪邸が並んで、川から階段で家まで上がれるようになっていて、夜になると屋形船がついて芸者衆を連れて家へ上がっていくのが見えました。今では全く面影がないですが、当時はお屋敷街だったんですよ。
20人から30人くらいですか。今でも芸者さんを呼んで宴会をする人はいますよ。浅草の心意気なんでしょうね。
街というのは花街を中心に出来上がっていくもので、この街も浅草寺から吉原への流れで人がどんどん集まり、今では考えられないくらいの大繁華街だったんです。ちょうど夜中の12時から3時ぐらいが一番外が賑わうときで、下駄の音や人の嬌声がうるさかったなあ。昼は人が多すぎてぶつからずに歩いていけないくらいだった。特に六区の映画館はすごい賑わいでした。
昭和40年頃までだったでしょうか。その後、新宿や渋谷など、東京の西側を中心とした浅草以外の街に、人が流れていくようになった。
そんななか大桝を引き継いだ私に架された課題は重く大きいものでしたが、怖い物なしでトライしていきました。若かったんですね。
食品の安全性については、販売者としての責任は免れないものと思います。一週間放置してもカビも生えないパン。大量の農薬散布で虫も寄りつかない青果物。添加物の塊と言ってもよいハム・ソーセージ。合成着色料などの添加物不使用のものを探すのが困難な菓子。このような商品を店頭より排除すべく、お客様を巻き込んだ啓蒙活動を地道に進めています。
「人の役に立つ商売をする」。初代から受け継がれてきた大桝の心は、「食の安全を守る」という形で受け継がれています。これが大桝の社会的存在意義であるという姿勢は、三代目が受け継ぎ、決して変わらない大桝の軸となっています。
今大桝は、スーパーと酒屋だけでなく、その強みを生かした新たな形の飲食店を展開しています。これからも地域の皆様に愛される店であり続けられるよう、努力していきます。
昭和5年6月 | 初代植木要造、江東区大島にて乾物屋開店 |
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昭和21年6月 | 台東区浅草6丁目に乾物屋開店 |
昭和23年12月 | 株式会社大桝商店に改組 |
昭和33年 | 台東区浅草4丁目に二店舗目乾物屋開店 |
昭和45年8月 | 代表取締役植木要造死去のため植木榮代表取締役就任 |
平成4年4月 | 株式会社ダイマスに商号変更 |
平成7年9月 | 酒の大桝開店 |
平成17年7月 | 酒の大桝雷門店開店 |
平成19年1月 | 植木榮、代表取締役会長に就任 / 植木裕嗣、代表取締役社長に就任 |
平成20年6月 | sake no daimasu wine-kan 開店 |
平成21年8月 | 浅草ビアホール D's Diner 開店 |
平成23年6月 | 浅草カフェ La Grande Calice 開店 |
平成24年5月 | 酒の大桝 kanda wine-kan 開店 |
ダイマスの特徴は、「ここからここまでが君の仕事」といった決まりがないことです。もちろん担当の売場について熟知してもらう必要があります。
ただ、そこで終わってほしくないのです。時間を見て他の売場へも目を配った上で、意見だって言ってほしい。「ここは君の担当外だから、、、」なんて言われることはありません。経営者になったつもりで常に全体を見渡して行動してもらいたいのです。
ダイマスの特徴は、「ここからここまでが君の仕事」といった決まりがないことです。もちろん担当の売場について熟知してもらう必要があります。
ただ、そこで終わってほしくないのです。時間を見て他の売場へも目を配った上で、意見だって言ってほしい。「ここは君の担当外だから、、、」なんて言われることはありません。経営者になったつもりで常に全体を見渡して行動してもらいたいのです。
思いついたことは全て実行してほしいのです。例えば、地方のごく限られたお店にしか置いていない商品をどうしても卸してほしい。そう思ったら、率直な意見を聞かせてほしいですし、場合によってはあなたが出張して交渉に当る、なんてことも有り得ます。 他の店を見て回って、長所、短所を把握するのも一つの方法でしょう。自分達の強み、弱みを知ってないと、自信を持ってお客様におすすめできませんから。
もっといいのは、お客様に直接お聞きすることです。常連の方が多いのと、浅草という土地柄もあって話しかけてくださるケースが多いのです。指名される位に信頼頂けるよう努めてください。もっとも、コミュニケーションを取ること自体は大切ですが、大事な情報収集の場と捉えるかが勝負の分かれ目です。
一番成長しないのは、わからないことをそのままにする人間だと考えています。仮にあなたが経験者であっても、どんどん聞いてほしいのです。大企業のようなきちんとした教育体制はありませんが、誰に聞いても親切に教えてもらえるはずです。
募集職種 | 酒の大桝 各店舗スタッフ(飲食ホール・調理補助) |
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応募資格 | 学歴は問いません。だいたい30歳くらいまでの方を考えていますが、私たちに賛同し、意欲を持って取り組んでくださる45歳位までの方も歓迎します。スーパーや食料品の経験は尊重しますが、むしろ「この店でこんなことをやりたい」といった意志とその可能性を重視します。ですから未経験者も歓迎です。 |
勤務地 | 各店舗 |
勤務時間 | 営業時間 |
給与 | 月給18万~ |
待遇 | 交通費全額支給、社会保険完備、退職金、 独身寮(店舗隣 月30000円自己負担) |
休日休暇 | 交代シフト制(店舗・部門ごとに毎月相談の上決定) |
応募方法 | 電話連絡の上、履歴書(写真貼付)を持参下さい。 土日夜間のお問い合わせも歓迎。 ※Eメールでの応募は受け付けておりません。 |
募集職種 | 各店舗 アルバイト・パート 随時募集 |
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応募方法 | 電話連絡の上、履歴書(写真貼付)を持参下さい。 土日夜間のお問い合わせも歓迎。 ※Eメールでの応募は受け付けておりません。 |